浮羽町の自然水路で発見された ヒナモロコ |
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◇平成17年(2005)4月24日(日曜日)、里親会の定例会合の終了後に、吉井町の会員からの(ヒナモロコがいるという)情報に基づき、浮羽町の水路を調査に出かけた。 そこには「田主丸町にしかいないはずのヒナモロコ」がいた。 (注)橋本哲男(田主丸養護学校教諭)が水路に入り、数尾捕獲した。 《 写真 1 》 その際、地元住民(写真・綾部某氏)の立合の下に話を聞いた。 ヒナモロコ保護活動のコンセプト【concept】は、「田主丸町にのみ生息するヒナモロコ」 なのだった。そして、そのことが、活動を支えるテーマであり、誇りであり、使命感だった。 ◇どの様な形でこの事実を公表し、田主丸町のヒナモロコとの関係をどの様に理解するのか、 ・・・・・・と言う重大な問題と向き合ってしまった。
吉井町に住むヒナモロコ里親会会員が、近くの商店に買い物に行くと、その商店の中に水槽が置いてあり、それを覗くと、何とそれは「ヒナモロコ」だった。 そこで会員が、この魚の由来を聞くと「近くの水路に、昔からいるので捕まえてきた」と言う話だった。 この地域は、平成12年(2000)までの3年間に渡って行った「ヒナモロコの生息調査」(注1)では、この水路を含む一帯から以東にはヒナモロコはいないだろう、として調査されなかった水域だった。 (注1)(社)日本水産資源保護協会の委託事業の報告書→→→ 情報を収集してみると、次のようなことが解った。この商店主の父親は、元町会議員である。聞くところによると、田主丸町でヒナモロコ再発見のニュースを聞いたとき、綾部某氏共々、これはあの水路にいるのと同じではないかと、すぐに判ったと。そこで、当時の教育委員会に「浮羽町にもヒナモロコがいる」「調査して欲しい」旨の要望を出したが、回答がないままに終わったと・・いうことであった。
この水路を含む一帯についての正確な現地調査は早速、翌月の平成17年(2005)5月29日に開始された。 この水路の両側には、ブドウ畑(1)が広がっていて、東から西へ流れて幅2車線ほどの南北に延びる道路と十字に交差して、道路の下に埋め込まれた土管(直径約700ミリ?)(2)を通り、北側一帯に広がるレンコン畑、側の土水路に流れ込み、そして巨瀬川に繋がるコンクリート水路に流れ落ちるようになっている。 従って、巨瀬川の南側に位置するという意味では、O水路(再発見水路)に似ている。 ヒナモロコは、主としてこの水路では(2)の土管の中に生息しているが、この水路に繋がっている南側のブドウ畑(1)の中を貫流する土水路・所々にある石組み土手下の溜まり水の中などにもいて、生息域はかなり広範囲であった。水路の南側は、ブドウ畑の私有地なので、調査としては不十分なものであったが、この時の調査による「ヒナモロコ個体の捕獲数は15尾」だった。体長約40ミリ。先の4月24日(日)に捕獲した個体、その後に捕獲した個体と合わせて、約20尾のヒナモロコを捕獲したことになる。この時の捕獲では、その他にフナとメダカ、タカハヤ稚魚がいた。 《 写真 2 》 こうして、証拠になる個体を確保したものの、打つ手が思いつかないままに平成17年(2005)の時間が過ぎた。 翌平成18年(2006)になっても、打つ手がないまま、捕獲したヒナモロコが産卵したという情報を得ただけだった。
平成19年(2007)8月、 約20尾のヒナモロコを飼育・繁殖させていた橋本哲男(里親会員)氏(注2)が、突然亡くなった。それは全く想定外の出来事だった。 そこで、里親会としては平成19年(2007)10月24日「日本魚類学会」関係者(注3)に「浮羽町のヒナモロコ」についての情報を提供して、その由緒についての調査を依頼することになった。それは第3回「竹野地区のヒナモロコの保護に関する協議会」の会議終了後だった。 (注2)橋本哲男氏はヒナモロコ里親会活動の中心的存在だった・・・・→→注釈5。 (注3)細谷和海(近畿大学農学部教授)、 小早川みどり(九州大学理学府研究生)、 鬼倉徳雄(九州大学大学院付属水産実験所)の3名。いずれも日本魚類学会会員。 早速、日本魚類学会による現地の視察が行われ、後日に採集調査が実行された。ところが「勇み足」で「レンコン畑」に入り込んだために、畑の所有者に泥棒と間違われ、警察沙汰となってしまった。 これ以後、レンコン畑の所有者・上村某氏、その息子(注4)といざこざが起こることになってしまった。 一方、日本魚類学会では、今回採捕した数尾の個体の遺伝子情報を解析して、田主丸の個体との相違を明らかにする、と言うことになった。 (注4)住所、姓名共に確認済み。上村氏は当時の区長で、ヒナモロコの採取に当たって、事前に挨拶訪問をして、魚類調査をしますと告げていた。 この地区・水域のヒナモロコがレンコン畑を生息場所として利用していることは間違いないと思われる。しかしながら、現時点で生息している土管(2)は道路の下であり、ブドウ畑(1)は、道路を挟んで東側であって、西側のレンコン畑とは全く別区画の水域である。 にもかかわらず、以後「レンコン畑で育った魚」と、ヒナモロコの所有権を上村氏は主張して、里親会の活動を監視するようになって、調査のための採集活動に際して、再三警察を呼ぶようになってしまい、その結果、里親会としては、この地区に関わることを回避するようになってしまった。警察も、区長が反対する以上、採取は止めて欲しいとの要望だった。 ところが翌年の平成20年(2008)9月、下水工事に伴う配管工事がこの水路に掛かる・・と言う情報がはいった。 《 写真 3 》 話では水路の下に土管を通すだけだから、水を抜くわけではないし、生息している魚に影響はない・・と言うような説明だった。里親会では、そんなことはないだろうと考え「ヒナモロコの緊急避難措置のための方法」を検討すると、やはり全数捕獲して、再放流が良いとの結論を得て、10月4,5日に採集行動を決行した。 結果は、上村某・息子が電話した警察官も駆けつける騒ぎとなり、その際に警察、上村某との仲介をしていただいたのは地区住民の足立さん(注5)だった。 (注5)住所、姓名共に確認済み。水路の出口にブロックを置いて、水位を調整して、魚の保護をしてこられた。里親会の行為を大変良く理解してくれている。 捕獲作業は途中で断念する事になったが、成果を出すことは出来た。 ・・・・捕獲数は、28尾(その後8尾逃げて20尾となった)→→→ヒナモロコ通信第77号 更に、11月10日には、下水道工事が間近に迫り、危険性が高いとの判断から、再度採集を試みて、採捕に成功した。 ・・・・捕獲数は、11尾。 →→→ヒナモロコ通信第78号 合計39尾を会員相互に分散して飼育することになった。
最初の発見時(H17)に採捕された個体は、橋本先生によって増殖されていたが、その逝去によって、ヒナモロコを全数引き取ることとなった。その引き取る際に、田主丸産のヒナモロコと浮羽町のヒナモロコとが混ざってしまった。その為にそれを引き取った里親会会員によって(故橋本先生飼育の)全てのヒナモロコをB水路(注6)に放流することとなった。 (注6)B水路は、ほ場整備事業に伴う水路の改修で「ヒナモロコ放流水路」として設計された多自然型水路である。関係者の名前を書いた大きな看板が道路沿いに立ててある。結局、放流(平成20年)された総数4000尾は、一年後には全て消滅した。 その間のモニタリングに際し、B水路で捕獲された最期の「13尾」については、その後どの様になったかは定かでない。 更に、平成20年(2008)捕獲の合計39尾は、最終的には吉井町の里親会員に、全数集めて預けられたが、その後逃げたり死んだりして、増殖できずに終わった。 又、日本魚類学会が持ち帰った個体については、現時点まで一切の報告はされていない。 この水路を含む一帯での土管工事の内容は、いろいろなトラブルのために見ることは出来なかったが、工事の傷跡からその内容は推測できると思って、先日現場を訪ねたところ、驚いたことに4,5年前の発見時の状態に戻っていた。さらに、レンコン畑の側溝も土水路も昔のままになっていた。とはいえヒナモロコの生息状況は、現時点では全くの白紙である。 しかしながら、 ヒナモロコの棲息を確認する希望の炎は消えていない・・・・・・・!!と、思った。 《 写真 4 》
ヒナモロコ里親会は、過去17年間のヒナモロコ保護活動を総括して、将来の方向を見据えたとき、 「田主丸町のヒナモロコ」という狭いワクでは保護活動に未来はない、との結論を引き出した。 筑後川流域全域にかつては生息していたヒナモロコを、狭い行政単位の独占物から、せめて「巨瀬川のシンボルフィッシュ」というような、県単位の大きな括りの中にその将来を見据えなければならないと考えた。 しかしながら、このヒナモロコが、「田主丸町にしかいない」のであれば、そのワクを取り除くことは大変に難しいが、同じ巨瀬川に繋がる水路の浮羽町にも生息していると言うことになれば、学術上の遺伝子の違いなども心配することなく、「同じ巨瀬川水系のヒナモロコ」として、町・市のワクを越えた県の支援を得る大きな保護運動に発展させることが出来るものと確信する。 このような背景から、ヒナモロコ里親会では、「プロジェクト3ヶ年計画」を企画・立案して、美津留川・古川水系への「ヒナモロコの放流事業」を実施することと平行して、浮羽地区のヒナモロコ生息調査を実施している。
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